Current Location: Home » Full Text Search
Your search : [ author:写真 李平] Total 3407 Search Results,Processed in 0.117 second(s)
-
1. つごう二百余名が一堂に。栄家一族、めでたく“大団円”。
エコノミストならずとも、中国経済に関心ある方なら、ご存知でしょう。栄毅仁(ロンイーレンー)氏。一九五〇年代に、「紅色老板」(赤い資本家)の異名(えいきじん)までとった、中国経済界の“立て役者”です。栄家一族は、今世紀のはじめ、父親の代に、四つの石臼から製粉業を興し、三〇年代には、故郷の無錫をはじめ、上海、済南などに、製粉、紡績、機械などの工場をもつ、中国有数の民族資本をうちたてました。一九四九年、
Author: 写真 李平 Year 1986 Issue 10 PDF HTML
-
2. 中国における日本美術
昔話神戸に住んでいたころ、わたしは日本版画史家の黒田源次先生と知り合いになった。あるとき先生はおもしろい話をされた。ヨーロッパの博物館をみて回ったとき、日本の南画が中国画のなかに入れられ、また中国画が日本画として取り扱われているのを発見した、という話で、先生はさいごにこういわれた。「これはおもしろい間違いだ。だがヨーロッパ人のこういう間違いのおかげで、わたしは、日中両国の美術の密接なつながりや、そ
Author: 李平凡 Year 1963 Issue 5 PDF HTML
-
3. 庶民の画家―葛飾北斎
北京と上海で開催された〈日本葛飾北斎画展〉は多くの人びとからよろこび迎えられた。それは、われわれに強い印象をあたえた。今回の展覧会は中日国交回復後において迎える最初の春に開催されたものであり、国交回復後における最初の展覧会でもあって、われわれのよろこびは格別であった。この規模の大きな画展は北斎の作品を観賞する機会を中国人民にあたえただけでなく、中日両国人民の友誼増進のために貢献するにちがいない。北
Author: 李平凡 Year 1973 Issue 7 PDF HTML
-
4. 黒龍江省「北大倉」新進版画家の新作
カラー·ページ参照「北大倉」版画は、もともと「北大荒」版画といっていた。この版画の誕生と発展の歴史は二十年足らずのことである。歴史は長くないが、これは中国の版画界に咲き出した鮮やかにも美しい一群の花というべきものである。二十年前―ということはつまり大躍進の時期である一九五八年に、中国人民解放軍で除隊になった大勢の軍人が、農業を大いにやろうという党の呼びかけにこたえて、中国各地から黒龍江省の東北辺境
Author: 李平凡 Year 1978 Issue 7 PDF HTML
-
5. 表紙のことば
日本―それは私の青年時代をすごした、第二の故郷である。去年、私は、旧友の久保茂氏に招かれて、二九年ぶりに日本を訪れた。四カ月間の訪問期間中、私は、妻の周燕麗といっしょにあわせて二九の都市を訪問した。たくさんの美術館と絵画展を見せていただき、美術関係の機関や大学などを次々に訪ねた。そして、日本の、文化界、美術界のかたがた、それに在日華僑の同胞たちの熱情あふれる招待を受けた。日本の美術関係の友人たちは
Author: 李平凡 Year 1980 Issue 1 PDF HTML
-
6. 着色木版画
「四人組」の粉砕で、十年の動乱に終止符が打たれ、わが国の版画界は酷しい冬から花開く春の季節を迎えたかのようだ。老版画家たちは再び彫刻刀を手にして版画創作の青春をとりもどしたし、中年の版画家たちも一連の評判をよぶ作品を創作しはじめている。またこの間、版画界には、才気あふれる青年版画家が数多く現われた。徐氷もそのひとりである。徐氷の原籍は浙江省温岑県、一九五五年に四川の山城重慶市に生まれた。二歳のとき
Author: 李平凡 Year 1983 Issue 1 PDF HTML
-
7. 瀋陽·蘇家屯の機関区に勢ぞろいしたSL群。“幻のパシナ”も化粧なおしされておめみえ
SL(蒸気機関車)ファンには願ってもない展覧会が、遼寧省は瀋陽·蘇家屯の機関区で開かれている。オールド·ファンなら、まず説明は不要、ひと目で分かる「パシナ」(パシフィック7)型蒸気機関車が、この展覧会の目玉。“幻の機関車”が、いま四十年ぶりに外国人旅行客にも“開放”されたのである。「パシナ」の“昔の名前”は「あじあ号」。日本の植民地経営の“尖兵”として「南満州鉄道」に投入された、当時、世界でも最新
Author: 写真 項毅 Year 1985 Issue 1 PDF HTML
-
8. こっちの「烤鴨」もいけますよ。懐柔県に飛んだペキンダック。
豊かになった北京郊外の農民は、一度は扒鴨(カオヤ)をと、何十キロもバスにゆられて市内の有名店をめざす。ところが北京名物の扒鴨のこと、店は大入満員で、二、三時間行列して待っても、必ず食べられるとは限らない。それではと、去年の十月六日、市内から北へ四九キロの懐柔県に「懐興飯荘」という扒鴨専門店がオープンした。オーナーは県の服務公司。建物は地元の渡河大隊の農民建築隊が二カ月半で完成、フロアには二百人が座
Author: 写真 狄華 Year 1985 Issue 3 PDF HTML
-
9. 六十周年を迎えた故宮博物院。“化粧直し”されて一層壮麗に
英訳では「禁断の都市」。そそり立つぶ厚い壁に囲まれた七十二万平方メートルの空間、間数九千の建築群。明·清王朝二十四人の皇帝の居城だった紫禁城が「故宮博物院」として一般に公開されたのは一九二五年十月十日のことだった。昨年の十月十日は、ちょうど「建院六十周年」にあたったため、建物の“化粧直し”がおこなわれるとともに、盛大な記念式典が開かれた。中国の歴史に関心のある方なら、「故宮博物院」が、台北にも設け
Author: 写真 王輝 Year 1986 Issue 1 PDF HTML
-
10. かいがいしく看取る溥傑氏、亡き周総理の励ましを胸に。
溥傑氏、今年七十九歳。清朝最後の皇帝で、のち「満州国」皇帝になった溥儀の実弟である。日本人嵯峨浩さんと結婚したのは一九三七年四月のこと。「満州国」経営のために、「関東軍」がしくんだ政略結婚だった。傀儡政権は日本軍の敗北とともに崩れ、溥傑氏は戦犯としてシベリアの流刑地へ、嵯峨浩さんは母国日本へ。一九五〇年、撫順の戦犯管理所に移された溥傑氏が特赦によって釈放されたのは、六〇年十二月のことだった。翌年、
Author: 写真 羽佳 Year 1986 Issue 8 PDF HTML